江戸時代の終わりごろ、日本の北方ではロシアとの接触が増えていきました。その中でも有名な出来事の一つがレザノフ来航です。
レザノフはロシア皇帝の使節として日本に派遣され、通商を求めて長崎にやってきました。しかし、江戸幕府はこれを拒否します。
この出来事はその後、ロシアとの衝突や北方探検にも影響を与えることになりました。
この記事では、
- レザノフ来航はいつ起きたのか
- どこに来航したのか
- その後の日本とロシアの関係
について、わかりやすく解説します。
レザノフ来航はいつ?どこに来た?

来航は1804年
レザノフが日本に来航したのは1804年(文化元年)です。
江戸時代後期、日本の北方ではロシアの南下政策が進み、日本との接触が増えていました。レザノフ来航は、こうしたロシアの対日外交の一環として行われたものです。
実はロシアが日本に使節を送ったのはこれが初めてではありません。
その前には1792年にラクスマン来航がありました。
詳しくはこちらの記事で解説しています。
→ ラクスマン来航とは?いつ・どこに来た?何をした?
来航場所は長崎
レザノフが来航した場所は長崎です。
当時の日本では鎖国政策が行われており、外国との正式な貿易は長崎でのみ行われていました。
そのため、外国の使節が日本と交渉する場合、基本的に長崎に来ることになっていたのです。
レザノフもこのルールに従い、長崎に来て幕府との交渉を行いました。
レザノフとはどんな人物?

ロシア皇帝の使節
レザノフ(ニコライ・レザノフ)はロシア帝国の外交官で、ロシア皇帝の命令を受けて日本に派遣されました。
当時ロシアはシベリアを越えて東へと勢力を広げており、極東地域での活動を強めていました。
その一環として、日本との貿易を開始したいと考えていたのです。
そこでレザノフは、日本との正式な通商関係を築くために来航しました。
日本との通商を求めて来航
レザノフは長崎で、ロシアと日本の貿易を認めてほしいと幕府に求めました。
しかし、日本は当時鎖国政策をとっており、外国との交流は厳しく制限されていました。
そのため幕府は、
- 朝鮮
- 琉球
- オランダ
- 中国
以外の国とは通商しないという方針を示し、レザノフの要求を拒否しました。
こうして交渉は失敗に終わります。
その後に起きた事件(文化露寇)

レザノフの交渉が失敗すると、日本とロシアの関係は急速に悪化します。
レザノフは帰国後、自分の部下たちに日本の北方地域を攻撃させました。
その結果、ロシア船が
- 樺太
- 択捉島
などを襲撃する事件が起きます。
この一連の事件は文化露寇(ぶんかろこう)と呼ばれています。
江戸幕府にとってロシアは大きな脅威となり、日本の北方防衛が重要な課題となりました。
ゴローウニン事件と高田屋嘉兵衛

日本とロシアの緊張はその後も続きます。
1811年にはロシアの軍人ゴローウニンが国後島付近で日本側に捕らえられる事件が起きました。
これが有名なゴローウニン事件です。
一方でロシア側も、日本の商人である高田屋嘉兵衛を捕らえました。
その後、高田屋嘉兵衛の努力によって両国の交渉が進み、最終的にゴローウニンは解放されます。
この出来事は、日露関係史の中でも重要な事件として知られています。
北方調査の強化と間宮林蔵

ロシアとの衝突をきっかけに、江戸幕府は北方地域の調査を強化するようになります。
そこで活躍したのが間宮林蔵です。
間宮林蔵は樺太を探検し、樺太が大陸とつながっていない島であることを確認しました。
この探検は、日本の北方地理を明らかにした重要な業績です。
詳しくはこちらの記事で解説しています。
→ 間宮林蔵とは?樺太探検をわかりやすく解説
まとめ
レザノフ来航のポイントをまとめると次の通りです。
- 1804年、ロシアの使節レザノフが長崎に来航
- 日本との通商を求めたが、幕府は鎖国政策により拒否
- その後ロシア船が樺太や択捉を襲撃(文化露寇)
- ゴローウニン事件などを通して日露関係が緊張
- 北方調査が進み、間宮林蔵の樺太探検へとつながった
なお、レザノフ来航の前にはラクスマン来航という重要な出来事があります。
こちらもあわせて読むと、江戸時代のロシアとの外交がよく理解できます。
